轍の先にあるもの

野尻抱介さんの新刊「沈黙のフライバイ」には「轍の先にあるもの」という短編が収録されているのですが,

沈黙のフライバイ (ハヤカワ文庫JA)

沈黙のフライバイ (ハヤカワ文庫JA)

これがはやぶさと大いに関連している話だと知ったのがつい先日でした…orz.はやぶさファン暦が浅いもので….はやぶさのことが小説に書かれたのはこれが世界初ではないでしょうか.

以下,ネタバレ含みます.未読の方はご注意ください.


この物語はある種特別なリアリティを持って迫ってきますが,それもそのはず,物語の前半はなんとノンフィクションです(多分).主人公である野尻さんが,あの小天体探査フォーラム MEF のメンバーと,NEAR 探査機による小惑星エロス着陸画像をめぐって議論するところから話が始まります.実際の議論はメーリングリスト上だけでなくチャットでも行われ,そのログが以下で公開されています.

はやぶさはまだ MUSES-C という名前ですが,詳しく解説されていますし,はやぶさの成果でおなじみの秋山さん,出村さん,平田さん,矢野さんといった方々も,ちゃんと小説に出てきて議論を交わしておられます(名前は多少変わっていますが,類推できるレベル).

そしてそのまま,執筆時点での「現在(2001 年)」を外挿する形で物語は展開していきます.MUSES-C は(当初の予定だった)2002 年に打ち上げられ,さらにちょっとしたブレークスルーによって小惑星探査技術が飛躍的に進歩し,そして主人公は長年の夢をかなえます.2001 年以降の未来予測は当時考えうる最良のシナリオといってもよいものであり,2007 年現在の宇宙研を取り巻く状況を鑑みるに,あり得たかもしれない並行世界を思うと少しやるせない気分になります.しかしその未来は決して空想的な夢物語でなく十分な尤度を持っていたことは,物語と現実との奇妙な符合を読み取れば明らかです(MEF の中の人からの情報があったとはいえ,MUSES-C の後継機が 2010 年打上げという予測は見事というほかありません.他にも後継機の名前や M-V の顛末など,今考えると興味深いですね).

そして登場人物たちが現実の世界で得たものを考えると,激しい感慨を覚えずにいられません.野尻さんと MEF の研究者たちは,MUSES-C に先んじる形で NEAR が得たわずかな画像を足がかりに,もどかしさを感じながらも想像力を駆使して小惑星表面について議論します.その内容が,昨今のイトカワ談義と重なるのです.しかもイトカワについては議論の量も質も比べがたいほどリッチなものが出てきている.いまや,ついに彼らは,他人ではなく自分たちが取ってきたデータで,もどかしさを感じることなく思う存分議論するところまで来たのです.ある意味,小説内で主人公が夢をかなえた瞬間と通じるものがあるかも知れません.ずっと MEF に関わってこられた方々にとっては今更何をと思われるかも知れませんが,MEF を最近知った管理人にとっては,当時の議論を本書で追体験することによって初めて,はやぶさがもたらしたものの片鱗を感じ取ることが出来たような気がします.


…というかもっと早く読めばよかった.SF マガジンも買わなくなってもう 10 年くらい経つので最近の日本の SF 作家にはとんと疎く,野尻さんのことも SF 作家としてでなく「宇宙開発に関するハイレベルな掲示板を主催している人」としてまず認識していました(すみません).しかし,野尻ボードを面白いと思う人間が野尻 SF を面白いと思わないはずはない,ということになんでこれまで気が付かなかったんだろう.不覚.

最後に,野尻さん本人による執筆記もおすすめです.

当初はSFのお約束どおり、なんらかの生命かその前駆物質を登場させようと思ったのですが、そんな粉飾をしなくても、小惑星はありのままでとても面白いのです。その地学としての面白さから目を逸らさないでいこう、と思いました。


追記:あ,読み返してみたら,作中に「はやぶさ」の名が出てきますね.やはり多少は加筆訂正されているのかな.